menamomi.net   祝屋城跡 安芸高田市

祝屋(いわや)城跡

祝屋城跡

この川は江の川(可愛川えのかわ)向かいの山に戦国時代の山城があり祝屋城跡と言われる。 位置は広島県安芸高田市甲田町深瀬にある山。[位置地図] 甲立の宍戸氏の居城五竜城から北北東に5キロの位置にある。

永正元年(1504)五竜城主宍戸元家が城を嫡子元源に譲り次男隆兼と三男家俊と共にここに移ったのがはじまり。その後慶長5年(1600),年毛利氏の防長移封に従い周防三丘に移り廃城となるまで4代96年の在所名を名乗った深瀬氏の居城として栄えた。

その頃毛利と敵対していた尼子詮久(26歳)が天文9年(1540)6月第一次先発隊として新宮党の尼子国久、誠久、久幸ら3千人を備後路から安芸の郡山城へ向かわせた。備後の下志和地の八幡山城に集結の後、この祝屋城での戦乱になったが城の守備は堅く、細道で迎撃したり、落とし穴に落としたり五竜城の救援を得て尼子軍を撃退。尼子詮久自身がこんどは石見路を通って郡山城から約4キロにある風越山に本陣を置き毛利と大戦郡山合戦の2ヶ月前のできごとだった。 城からえの川をはさんで向かいの犬飼平もその時の戦場であった。

かつてここは石見堂の渡しがあり今写真の左に写っているのが石見堂橋。川の向こうは国道54号線。この川も戦乱の地だっただろう。山の高さ257m国道が178mだから比高約80mのいわい山である。近くには宍戸元家の墓、清瀬神社前には深瀬隆兼の墓が今も残っている。麓の字を船津という。三次と吉田の中間、江の川の舟運の中継地でもありかつては上流教徳寺下からこの辺り迄天屋市がたつ賑わいもみせていた。 山麓鳳台院観音の下方に馬洗の池と称する池も残されていて城とのかかわりが伺える場所も残っている。今回多少調べたのだがこうして普段なにげなく通っている場所もかつて繁栄した歴史を秘めた場所が江の川流域には多くある。

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