【14】秀吉と家康
温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。
秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘。三条局は蒲生氏郷(うじさと)の妹、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟信包(のぶかね)の娘、主筋の令嬢をズラリト妾に並べてゐる。たま/\千利久といふ町人の娘にふられた。
ところが家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他、神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹(キリシタン)で妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮(はぶ)の近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
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