神之瀬峡の製鉄遺跡

神之瀬峡の産業は製鉄だった

神之瀬峡のある場所はかつて櫃田村と呼ばれていました。ここでは江戸時代から明治時代の中ごろまでは砂鉄を集めて鉄を作り出す 仕事が盛んでした。たたら製鉄の歴史は今から約100年前西洋から入ってきた鉄鉱石を使った高炉での製鉄に取って代わられなくなりました。 当時中国山地は全国の95%にも達する鉄の生産地だったのです。この神之瀬峡の産業もそれが中心でした。 高暮ダムができるまでは神之瀬峡の本流の川沿いの道はつながっていませんでした。でも山の尾根や谷を越え東西、南北、道があり互いに 馬の背などで炭や砂鉄や鉄や食料などが運ばれていました。以下の情報は君田村櫃田誌を参考にさせていただきました。 ここで言う鍛治屋とは鑪で吹かれた銑(ずく)をたたいて炭素を少なくし粘り強くした製品で鎌、鍬、包丁などの原料となるものを作る所です。大鍛冶屋 と呼ばれることもありました。

江戸末期の鉄を運ぶ古老の思い出

hitutasi.jpg(9628 byte) 未だ夜の明けないうちに、二頭の馬の背に鉄を積み、細い山道を下って木呂田の港へ運び、鉄をおろして一休みし、 粟屋粉鉄や塩をのせ、竹地谷を上がり、曲がり谷をこえ、中ノ谷鍛冶屋に荷物を下す。夕暮れふたたび馬の背に鉄を積んで 我が家へ、一周14里。ほっとする間もなく明日のため、馬のワラジ7足と、自分のもの二足を作り、やっと一日の仕事が終わる。 来る日も、来る日も、この仕事の連続であったと云う。また15歳の頃、それは元治元年、伊久利鍛治屋から山を越え、鉄を背負って横谷へ 鉄を背負って通ったこともあるなど祖父が囲炉裏端でよく話していたと君田村櫃田誌で小滝文雄さんが記されています。

神之瀬峡の製鉄遺跡地図

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松ヶ瀬鑪

文政年間(1818-30)に操業していた。県道下の雑木林に天保9年の村下の墓。高幡山より茂田に至る道があり砂鉄や木炭が運ばれていた。 文政年間阿鹿山の鉄穴場より砂鉄がはこばれていたかも。たたら跡より80m上の山腹に広い二段の金屋子神社跡がある。たたら跡下に金池跡があり 鉄さいがある。県道下に下小屋跡の石垣がある。30人ぐらいで操業。安政2年(1855)ここから岩敷に住人移動。

岩敷鑪

安政元年(1857)から明治32年(1899)操業。高殿は10間四方で屋根は板葺で4日間でずくを40駄(1200貫)(112kg*40駄=4.5t)(1駄=112.5kg)できる大規模。 また一駄で運ぶ鉄は30挺〈チョウ〉(約60kg)とも。30kg馬の左右に振り分けた。村下は岩村勝平。砂鉄は茂田より運ばれ亦粟屋粉鉄も混ぜて使用。 できた銑は中ノ谷鍛冶屋へ運ばれた。初期には二本谷や伊久利の鍛治屋に行くこともあった。木炭は田城山より奥や曲り谷などで伐られる。 今はたたらの中心を示す石柱が田の中央に残るのみ。水神池、タタラ坂、金屋子神社が残る。タタラ以前は鍛治屋もあったらしい。 松林春三宅は当時の御用所を移転したもの。

二本谷鑪

弘化(1845)から万延(1860)ごろの記録があり鍛治屋も同時期操業。二本谷の入り口近くにあるタタラ跡は明治の初め頃まで操業していた。伊予谷ユリ宅の前の水田が鑪跡。近くに4m四方深さ1.5mの石垣で作られた池がある。この上方に金屋子神社があった。砂鉄は茂田から運ばれていた。ここの銑(ずく)は(鋳物の材料、包丁鉄の原料)はこの谷の上流の雄吉原鍛治屋にいった。一本木利夫宅の近くにタタラ床と呼ばれる炉跡がある。雄吉原より200m下に向屋敷という鑪跡。雄吉原にもタタラ跡もあり。 上流にホイトー原鍛治屋。その上流右の谷から茂田に向けて水路が作られカンナ流しに使用されていた。

大庵鑪、小庵鑪

ここのたたらは宝暦年間(1751-1763)操業。 大庵の大川端に1つそれより800m上流に新しいものが1つあった。ここの銑は山越えして吸谷に運ばれた。庵より下流の茗荷谷までは昔は道はない秘境の谷であった。 大川端の木立の中に宝暦年間の新次郎と書かれた御場所役人の子供の墓がある。山中に無数の無縁墓もある。下流の谷の小庵谷の上流県境ちかくに鑪跡があり少し下って2箇所、鍛治屋があった。

茗ヶ谷鑪 小原鑪

いずれも操業年代は不明。茗ヶ谷には大規模な鍛治屋があった。対岸の小原山の広い山林を背景とした木炭を利用したのではないか。 小原には2箇所の鑪跡と県道沿いの元製炭所の木炭倉庫付近に鍛治屋があった。戦時中に鉄滓[俗に金屎(かなくそ)]を掘り出したという。

今谷鑪

寛政12年(1800)、享和2年(1802)鉄山米を今谷に送った記録あり。そのころ鍛治屋のあとに鑪が操業している。川のなかに両方の鉄さいがある。 むかしカジヤ床とも呼ばれていた。今谷川を上り川がふたつに分かれる場所は東西(竹地-沓ヶ原-伊久利-吹谷-赤名)と南北(木呂田-岩敷-小今谷-中ノ谷-上野)を結ぶ 交通の十字路であった。

伊久利鍛治屋

ここには新旧ふたつの鍛治屋があった。下伊久利が寛政7年(1795)享和2年(1802)。上伊久利は安政6年(1859)元治元年(1864)から明治26年(1893)まで操業。 明治13年には戸数33戸で195人住んでいた。 明治になる4年前の元治元年にはここの1鍛治屋1日に1駄4歩生産、2軒丁場あり年間950駄を生産。双三、比婆郡で24240駄生産していた。 木建忠次郎宅が御場所屋敷で倉は銑倉であった。[銑(ずく)とは砂鉄を溶かし取り出した鉄で、不純物を含むもの] 銑は吹谷鑪から山伏谷を通り運ばれた。下伊久利は同時代操業の今谷鑪から銑がはこばれたかもしれない。伊久利金屋子神社は中ノ谷金屋子神社と合祀(ごうし)。 木建宅下流の林道橋右岸に鑪もあった。

中ノ谷鍛治屋

文政年間(1818‐1830)より明治37年(1904)まで約70年操業。全国最大規模。明治13年には戸数42戸245人。 全盛期には戸数63戸あった。銑は松ヶ瀬、岩敷、上野鑪より運ばれた。小炭は専属の山子で中ノ谷で焼かれた。 船山に至る300町歩ちかい山々は鍛治屋奥と呼ばれている。ここの木がなくなると黒口谷を切って下った。 作業場は4間に12間で3間丁場であった。各丁場にはフイゴ4人(風をおくる)、ツチ相手4人(鉄をたたく)、大工1人(鉄を台に乗せて持つ)、左下1人(銑を焼く)の合計10人 で働いた。製品の錬鉄は1荷10本46.875kg(12貫500匁*3.75kg)を馬の左右に1つけそれを1駄(93.75kg)として運んだ。一人で馬2頭引き中ノ谷-櫃田-木呂田に運ぶ。 木呂田の港からは船で吉田へ。そこから馬で上根峠を越え、可部から船で広島へ運ばれた。昭和40年には中ノ谷に無人になった。

中ノ谷大鍛冶屋跡探索youtube

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