menamomi.net   三良坂の友永城址

友永城

友永城址

城址とは城跡のことであり英語では the site of an ancient castle.昔の城の遺跡ということだ。 この友永城があった川に挟まれた小高い山は戦国時代の山城で丘陵先端の上部に郭の跡。麓にわずかの痕跡がある。 友永城の場所は広島県三次市三良坂町仁賀蔭地で右の川は上下川で約2.5km上流に灰塚ダムがある。手前は本村川が上下川とであう場所。 東洋書林の「中国地方の中世城館広島2」に郭の図があった。友永城は標高265m。下から比高さは65m。南西方向に突き出た 形で標高260m当りで幅40m長さ80mの敷地が土塁でもりあげられ四方に堀切がある。三良坂町誌には「友永城」仁賀にあり、 大江朝臣永井(長井)加賀守元勝の居城する所なり(明治40年萩原村名勝旧蹟よる)初めは田総の庄の領主永井氏の一族である大江の朝臣長井加賀守元勝 が居城していたが、毛利元就にまねかれて吉田に移住したと推定され、後になって和知氏の一族仁賀四郎左衛門及びその子の仁賀勘解由が居城したとおもわれる。と記してあった。

友永城と永井氏

甲奴郡総領町稲草の龍興寺という禅刹に伝わった「永井(長井)氏由来」には田総氏の当主元里、その子元勝は相次いで死去したが、後を継いだ元忠は縁を頼って長州萩に赴いた。とでてくる。もちろん大江の流れを汲む永井氏が在地の名をなのり田総となのったのであろうし、毛利氏と同じ大江の流れをたどる縁者として関が原の戦いの後長州毛利に行ったのであろう。元勝の子元忠の書いた故郷の人への手紙には「父元勝が大坂で死去しました節も弔い執行された由、改めてお礼申し上げます…」 とある。これは憶測だが永井元勝は田総の領主で、友永城の下の上下川を遡る現在の庄原市総領町に本拠おいていた のだからその出城であろう城の友永城は友永という家来が守っていたのかも知れない。広島県では現在北広島町を出目とする友永氏以外あまりいない珍しい名前。ここに友永という名が残っているのが不思議である。

友永橋

友永橋

かつてこの付近を歩くていたときこの友永橋をみつけた。この辺に友永という名の家や地名はみあたらないのになぜ 友永橋という名の橋があるのか疑問をもっていたがここに友永城があったことを知り合点がいった。 向かいの山が友永城でまさに城へ向かうための橋。だが戦国時代には橋はなかったかも知れない。友永というのが仁賀氏が 来る前の地名だったかもしれないがよくわからない。

友永橋

友永橋の石の欄干のほうは昭和10年の戦前にできたものであと半分はスチールでできていて真ん中が写真のように見れるのも おもしろい。壊れたほうだけ建て替えていてエコである。すぐ下流に灰塚ダムへ行く橋がかけられ通行量は少なくなった。 その下流には後鳥羽上皇伝説の王渡り橋がある。

友永城址麓の五輪塔

友永城址麓の五輪塔

友永城を知るきっかけになったのがこの五輪塔である。三次図書館で昭和60年に庄原市の文化新聞社が発行した 「備北の伝承.文化財・民族・伝説写真集」に載っていた。それには友永城跡麓の五輪等として写真があった。 真ん中の祠は恵比寿神社が祭られているが直接の関係はない。三良坂には各所に五輪塔があるがその形式からして戦国期までさかのぼると思われるとあった。毛利氏に滅ぼされた和知氏のけらい仁賀氏のものだろうか。左には根元付近の幹周り1.3mのツバキの古木がその古さをうらずけているようであった。

納屋

五輪塔のすぐ近くに古風な納屋があった。木の曲がりをうまく生かした建物で土壁もしっかりしている。こんな世間遺産が 旅の楽しさを増やしてくれる。

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