植物知識 牧野富太郎

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前書き

 花は、率直にいえば生殖器

花は、率直にいえば生殖器である。有名な蘭学者の宇田川榕庵(うだがわようあん)先生は、彼の著『植学啓源(けいげん)』に、「花は動物の陰処(いんしょ)の如し、生産蕃息(はんそく)の資(とり)て始まる所なり」と書いておられる。すなわち花は誠に美麗で、且(か)つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。まず花弁の色がわが眼をひきつける、花香(かこう)がわが鼻を撲(う)つ。なお子細に注意すると、花の形でも萼(がく)でも、注意に値せぬものはほとんどない。

 花は、種子を生ずるために存在している器官

この花は、種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。そしてその花形、花色、雌雄蕊(しゆうずい)の機能は種子を作る花の構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂して繁殖する。)

 植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れた子孫を継ぐ根源であるからである。この根源があればこそ、植物の種属は絶えることがなく地球の存する限り続くであろう。そしてこの種子を保護しているものが、果実である。

 自分の種属を絶やさぬことに全力を注ぐ

草でも木でも最も勇敢に自分の子孫を継ぎ、自分の種属を絶やさぬことに全力を注いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっして絶滅することがない。これは動物も同じことであり、人間も同じことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおり草木と同様、わが種属を後代へ伝えて断やさせぬためであって、別に特別な意味はない。子を生まなければ種属はついに絶えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属の中継ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。

 ゆえに生物学上から見て、そこに中継ぎをし得なく、その義務を怠っているものは、人間社会の反逆者であって、独身者はこれに属すると言っても、あえて差しつかえはあるまいと思う。つまり天然自然の法則に背いているからだ。人間に男女がある以上、必ず配偶者を求むべきが当然の道ではないか。

 動物が子孫を継ぐべき子供のために、その全生涯を捧げていることは蝉の例でもよくわかる。暑い夏に鳴きつづけている蝉は雄蝉であって、一生懸命に雌蝉を呼んでいるのである。うまくランデブーすれば、雄蝉は莞爾(かんじ)として死出の旅路へと急ぎ、憐れにも木から落ちて死骸を地に曝し、蟻の餌となる。  しかし雌蝉は卵を生むまでは生き残るが、卵を生むが最後、雄蝉の後を追って死んでゆく。いわゆる蝉と生まれて地上に出でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。これは草でも、木でも、虫でも、鳥でも、獣でも、人でも、その点はなんら変わったことはない、つまり生物はみな同じだ。

 われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つであろう。花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。

果実

世間ふつうには果実というといわゆるクダモノであって、リンゴ、カキ、ミカンなどの食用になる実を呼んでいるのであるが、しかし植物学上で果実と称するものは、花の後にできる実をすべて果実といい、通俗とは大いにその呼び方が異なっている。そしてそれはあえて食用になると、ならないとにかかわらず、すべてをそういっている。ゆえにシソ、エゴマの実のようなものでも果実であり、また右のリンゴ、カキなどのようなものでもむろん果実である。
 花の中の子房が花後(かご)に成熟して実になったものは、果実そのものの本体で、すなわち正果実である。
 ウメ、モモ、ケシ、ダイコン、エンドウ、ソラマメ、トウモロコシ、イネ、ムギ、ソバ、クリ、クヌギ、ならびにチャの実などがそれである。
 また、果実には他の器官が子房と合体し、共同で一の果実をなしているものもある。すなわちリンゴ、ナシ、キュウリ、カボチャ、メロンなどがそれである。
 また、他の器官が主部となって果実をなしているものもあって、そんな場合は、これを擬果(ぎか)とも偽果(ぎか)とも称(とな)える。すなわちオランダイチゴ、ヘビイチゴ、イチジク、ノイバラの実などがそれである。

 果実の食用となる部分は、果実の種類によってかならずしも一様ではない。モモ、アンズなどは植物学上でいうところの中果皮の部を食用とし、リンゴ、ナシなどは実を合成せる花托部(かたくぶ)を食しており、ミカンは果内の毛を食し、バナナは果皮を食し、イチジクは変形せる花軸部を食用に供している。
 いろいろの果実、すなわち実を研究してみるとなかなかおもしろいもので、ふつう世人が思っているよりほか、意外な事実を発見するものである。次に四つの果実について、おのおのその趣味ある特状を述べてみましょう。

植物知識 牧野富太郎 あとがき

 植物知識を得られたならば、筆者の私は大いに満足

まず以上で花と実との概説を了(お)えた。これは一気呵成(いっきかせい)に筆にまかせて書いたものであるから、まずい点もそこここにあるであろうことを恐縮している。要するに失礼な申し分ではあれど、読者諸君を草木に対しては素人であると仮定し、そんな御方になるべく植物趣味を感じてもらいたさに、わざとこんな文章、それは口でお話するようなしごく通俗な文章を書いてみたのである。もし諸君がこの文章を読んでいささかでも植物趣味を感ぜられ、且(か)つあわせて多少でも植物知識を得られたならば、筆者の私は大いに満足するところである。

 植物ほど人生と深い関係を持っているものは少ない

 われらを取り巻いている物の中で、植物ほど人生と深い関係を持っているものは少ない。まず世界に植物すなわち草木がなかったなら、われらはけっして生きてはいけないことで、その重要さが判(わか)るではないか。われらの衣食住はその資源を植物に仰(あお)いでいるものが多いことを見ても、その訳がうなずかれる。

 植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然の賜(たまもの)である。実にこれは人生の至宝であると言っても、けっして溢言(いつげん)ではないのであろう。

 翠色(すいしょく)(した)たる草木の葉のみを望んでも、だれもその美と爽快とに打たれないものはあるまい。これが一年中われらの周囲の景致である。またその上に植物には紅白紫黄、色とりどりの花が咲き、吾人の眼を楽しませることひととおりではない。だれもこの天から授かった花を愛せぬものはあるまい。そしてそれが人間の心境に影響すれば、悪人も善人になるであろう。荒(すさ)んだ人も雅びな人となるであろう。罪人もその過去を悔悟するであろう。そんなことなど思いめぐらしてみると、この微妙な植物は一の宗教である、と言えないことはあるまい。

  自然の宗教!その本尊は植物

   自然の宗教! その本尊は植物。なんら儒教、仏教と異なるところはない。今日私は飽くまでもこの自然宗教にひたりながら日々を愉快に過ごしていて、なんら不平の気持はなく、心はいつも平々坦々である。そしてそれがわが健康にも響いて、今年八十八歳のこの白髪のオヤジすこぶる元気で、夜も二時ごろまで勉強を続けて飽くことを知らない。時には夜明けまで仕事をしている。畢竟(ひっきょう)これは平素天然を楽しんでいるおかげであろう。実に天然こそ神である。天然が人生に及ぼす影響は、まことに至大至重(しだいしちょう)であると言うべきだ。

 植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興は国の富を殖やし、したがって国民の生活を裕かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧すれば、その間に罪悪が生じて世が乱れるが、富めば、余裕を生じて人間同士の礼節も敦くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致することになる。想えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。

 人間は生きている間が花である。わずかな短かい浮世である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智を磨き、人のために尽くし、国のために務め、ないしはまた自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死するほど馬鹿なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為に過ごしてはもったいなく、実に神に対しても申し訳がないではないか。

  草木に愛を持てば人間愛を養うことができる

   私はかつて左のとおり書いたことがあった。 「私は草木に愛を持つことによって人間愛を養うことができる、と確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮ほどの偉物(えらぶつ)であったなら、きっと私は、草木を本尊とする宗教を樹立してみせることができると思っている。私は今草木を無駄に枯らすことをようしなくなった。また私は蟻一ぴきでも虫などでも、それを無残に殺すことをようしなくなった。この慈悲的の心、すなわちその思いやりの心を私はなんで養い得たか、私はわが愛する草木でこれを培(つちこ)うた。また私は草木の栄枯盛衰を観て、人生なるものを解し得たと自信している。

 これほどまでも草木は人間の心事に役立つものであるのに、なぜ世人はこの至宝にあまり関心を払わないであろうか。私はこれを俗に言う『食わず嫌い』に帰したい。私は広く四方八方の世人に向こうて、まあ嘘と思って一度味わってみてください、と絶叫したい。私はけっして嘘言は吐かない。どうかまずその肉の一臠(いちれん)を嘗(な)めてみてください。

 みなの人に思いやりの心があれば、世の中は実に美しいことであろう。相互に喧嘩も起こらねば、国と国との戦争も起こるまい。この思いやりの心、むずかしく言えば博愛心、慈悲心、相愛心があれば世の中は必ず静謐(せいひつ)で、その人々は確かに無上の幸福に浴せんこと、ゆめゆめ疑いあるべからずだ。

 世のいろいろの宗教はいろいろの道をたどりてこれを世人に説いているが、それを私はあえて理窟を言わずにただ感情に訴えて、これを草木で養いたい、というのが私の宗教心でありまた私の理想である。私は諸処の講演に臨む時は機会あるごとに、いつもこの主意で学生等に訓話している」  

  植物に趣味を持てば次の三徳がある

     また私は世人が植物に趣味を持てば次の三徳があることを主張する。すなわち、
 第一に、人間の本性が良くなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて、和やかな心にならぬものはあるまい。氷が春風に融けるごとくに、怒りもさっそくに解けるであろう。またあわせて心が詩的にもなり美的にもなる。
 第二に、健康になる。植物に趣味を持って山野に草や木をさがし求むれば、自然に戸外の運動が足るようになる。あわせて日光浴ができ、紫外線に触れ、したがって知らず識(し)らずの間に健康が増進せられる。
 第三に、人生に寂寞(じゃくまく)を感じない。もしも世界中の人間がわれに背くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にある草木は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるのであろう。
 惟(おも)うに、私はようこそ生まれつき植物に愛を持って来たものだと、またと得がたいその幸福を天に感謝している次第である。

出典 植物知識 牧野富太郎

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