サクラソウ 植物画
サクラソウ
サクラソウはよく人の知っている花草(かそう)で、どんな人にでも愛せられる。またその名もよくつけたもので、まことにその花にふさわしい名称である。通常桜草と書いてあるが、これはもとより中国名すなわち漢名ではなく、単にサクラソウを漢字で書いたものたるにすぎなく、サクラソウには中国名はない。
そしてその学名は Primula Sieboldi Morren forma spontanea Takeda. であるが、この学名の中にある forma は品の義でその変わり品を示しており、spontanea は自生(じせい)の意、種名の Sieboldi はかの有名なシーボルトの人名であり、属名の Primula は最初の義で、畢竟(ひっきょう)花の早咲(はやざ)きを意味したものである。
サクラソウは平野に生ずるが、また山の高原地にも見られる。しかしそう普遍的(ふへんてき)にどこにもあるものではない。東京付近では、かの田島(たじま)の原にたくさん咲くので、そこは天然記念物に指定せられている。また信州〔長野県〕軽井沢の原にもあり、また遠く九州豊後(ぶんご)〔大分県〕の日田(ひた)地方にもあるといわれている。
宿根草(しゅっこんそう)で、これを人家の庭に栽(う)えても能(よ)く育ち、毎年花が咲いてかわいらしい。葉は一株(かぶ)から二、三枚ほど出(い)でて毛がある。長い葉柄(ようへい)を具(そな)え、葉面(ようめん)は楕円形(だえんけい)で重鋸歯(じゅうきょし)があり、葉質(ようしつ)は軟(やわ)らかくて皺(しわ)がある。四月ごろ花茎(かけい)が葉よりは高く立ち、茎頂(けいちょう)に繖形(さんけい)をなして小梗(しょうこう)ある数花が咲く。花下(かか)に五裂(れつ)せる緑萼(りょくがく)があり、花冠(かかん)は高盆形(こうぼんけい)で下は花筒(かとう)となり、平開(へいかい)せる花面(かめん)は五片(へん)に分かれ、各片の頂(いただき)は二裂(れつ)していて、その状すこぶるサクラの花に彷彿(ほうふつ)している。花の直径はおよそ二センチメートルばかりで、花色は紅紫色(こうししょく)であるが、たまに白花のものに出逢(であ)う。花筒(かとう)内には五雄蕊(ゆうずい)と一雌蕊(しずい)とがあって、雌蕊のもとに一子房(しぼう)がある。
このサクラソウの園芸的培養品にはおよそ二、三百の変わり品があって、みなこれまでの熱心な園芸家により、苦心して作り出されたものである。これは世界中に類のないもので、大いにわが邦(くに)の誇(ほこ)りとするに足(た)る花である。
ここに最も興味のあることは、このサクラソウ(同属の他の種も同様)の花には二様の差があって、それが株によって異なっている事実である。すなわち一方の花は五つの雄蕊(ゆうずい)が花筒(かとう)の入口直下についていて、その雌蕊(しずい)の花柱(かちゅう)は短い。また一方の花は雄蕊(ゆうずい)が花筒(かとう)の中途についていて、その花柱は長く花筒の口に達している。すなわち前者は高雄蕊短花柱(こうゆうずいたんかちゅう)の花であり、後者は低雄蕊長花柱(ていゆうずいちょうかちゅう)の花である。
ゆえにこれらの花は自分の花粉を自分の柱頭(ちゅうとう)に伝うることができず、是非(ぜひ)ともそれを持ってきてくれる何者かに依頼(いらい)せねばならないように、自然がそう鉄則(てっそく)を設(もう)けている。まことに不自由な花のようだが、実はそれがそう不自由でないのはおもしろいことではないか。なんとなれば、そこには花粉の橋渡(はしわた)し役を勤(つと)めるものがあって、断(た)えずこの花を訪(おとず)れるからである。そしてその訪問者は蝶々(ちょうちょう)である。花の上を飛び回(まわ)っている蝶々は、ときどき花に止まって仲人(なこうど)となっているのである。
今、蝶(ちょう)が来て高雄蕊低花柱(こうゆうずいていかちゅう)の花に止まったとする。すなわちその長い嘴(くちばし)をさっそく花に差し込んで、花底(かてい)の蜜(みつ)を吸う。その時その嘴(くちばし)に高雄蕊(こうゆうずい)の花粉をつける。次にこの蝶が低雄蕊高花柱(ていゆうずいこうかちゅう)の花に行き、その嘴(くちばし)を花に差し込む。そうすると低雄蕊(ていゆうずい)の花粉がその嘴(くちばし)に付着するばかりでなく、前の花の高雄蕊からつけて来た花粉を高花柱(こうかちゅう)の柱頭(ちゅうとう)につける。また右の低雄蕊の花からその低雄蕊の花粉をつけて来た蝶は、その花粉を低花柱(ていかちゅう)の柱頭につける。
このようにその花の受精するのは、どうしても他の花から花粉を持って来てもらわぬ限りそれができないから、自分の花粉で自分の花の受精作用はまったく不可能である。他花(たか)の花粉で、自分の花の受精作用を行わんがために、このサクラソウの花は雄蕊(ゆうずい)の位置に上下があり、雌蕊(しずい)の花柱に長短を生じさせているのである。天然(てんねん)の細工(さいく)は流々(りゅうりゅう)、まことに巧妙(こうみょう)というべきではないか。こうなると他家結婚ができ、したがって強力な種子が生じ、子孫繁殖(しそんはんしょく)には最も有利である。
植物でも自家受精、すなわち自家結婚だと自然種子が弱いので、そこで他家受精すなわち他家結婚して強壮(きょうそう)な種子を作ろうというのだ。植物でこんな工夫(くふう)をしているのはまことに感嘆(かんたん)に値(あたい)する。今それを人間にたとうれば、同族結婚を避(さ)けて他族結婚をしたこととなる。実際縁(えん)の近い人同士の結婚はあまり有利でなく、これに反して縁の遠い人同士の結婚が有利である。それゆえイトコ同士の結婚などはあまり褒(ほ)むべきものではなく、強健(きょうけん)な子供を欲(ほ)しいと思えば、縁類でない他の家から嫁をもらうべきである。前述のとおりサクラソウでさえ、自家結婚を避けて他家結婚を歓迎(かんげい)しているではないか。言い古した言葉だが、「人にして草に如(し)かざるべけんや」である。
日本にはサクラソウ属の種類がおよそ三十種ばかりもあるが、その中で一番りっぱで大きな形のものはクリンソウで、これは世界中でも有名なものである。温室内にあるサクラソウ類には中国産のものが多く、シナサクラソウ、オトメザクラ、ハルコザクラなどはその名が高い。とにかく、観賞花としてサクラソウの類は、上乗(じょうじょう)なものである。
出典 植物知識 牧野富太郎